「男子高校生、はじめての」
〜第5弾 兄弟だから、何もない〜
好評予約受付中です!
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第5弾は同じ屋根の下に住む【義兄弟】の彼ら。ドラマCD本編が始まる前、学校から帰宅した慧斗が耳にしたのは……。近いのに近づけない、兄弟だからこその恋の行方をどうぞお楽しみに!
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さつきやみ
(文:桜しんり)
(文:桜しんり)
初めて義兄が――春惟が女の子を家に連れ込んだのは、いつのことだっただろう。
濡れた前髪を手櫛でかきあげながら、慧斗は考えてみた。
髪が指にまとわりつく不快感に眉を潜める。学校からの帰り道、通り雨にあったせいで、顔も制服も水が滴るほど濡れていた。夏はまだ少し先なのに、今日はひどく蒸し暑い。
混じり合った雨と汗を、早くシャワーで流したかった。なのにバスルームに行かず二階の自室に直行したのは、部室から持ち帰ったスケッチブックが濡れていないか確認したかったからだ。
――知ってたら、部屋に戻らなかったのに。
雨から逃げるように走った、この長く続く息切れのせいだ。描きかけのデッサンが大事だったからだ。だから見落としたんだ――慧斗はそう自分を慰めた。
なぜなら玄関に、靴があったはずだ。見慣れない女子のローファーか、スニーカーが、きっと。
「……また部活サボって女かよ」
隣の義兄の部屋から聞こえてくるのは、どこか媚びているような女子の笑い声だった。
壁を通してぼんやりと耳に入るその声は、慧斗が苛立つと静まり、静まったことに安堵すると再び発せられて、慧斗は簡単に翻弄される。そしてそれ以上に慧斗が反応してしまうのは、女子をからかうような――春惟の甘い声だった。
――初めて春惟が女の子を家に連れてきたのは、いつのことだっただろう。
慧斗はもう一度考えてみた。
それはもう何度も考えた事で、答えは知っている。そのくせ思い出すのに嫌になるほど時間がかかった。
いつもこの状況に置かれてからしばらくは、動揺が酷くて、まともに思考できなくなっているのだ。だから慧斗は、自分が動き出す為だけに、同じ質問を自分へ向ける。
――三年前だ。自分が中学二年生、春惟が中学三年生の時。
それから春惟は、両親が仕事から戻るまでの時間、よく女子を家に連れ込むようになった。何人もの子を。
でも、それは自分に何の関係もない――。
慧斗は首を横に振った。揺れた髪先が雨水を部屋に散らして、溜息を吐く。帰宅してからはじめて呼吸をしたような気がした。
――春惟は「兄」で、俺は「弟」で。「家族」は絶対、失いたくないもので――だからもう二度と考えないって決めただろ。
慧斗の決意を蔑むかのように、女子の一際高い笑い声が慧斗の冷えた耳朶をくすぐる。直後、ぴたりと止まって、不自然な沈黙が続いた。
いやらしい声が聞こえてこないだけ、今日はましな方だ。
そんなよくわからない慰めで何とか力を得て、慧斗は息苦しいネクタイを解いて、スケッチブックが無事なのを確認して、すぐに部屋を出る。息を止めて兄の部屋の前を通り過ぎ、階段に足を踏み出そうとした瞬間、背後でドアの開く音がした。
「あ……」
小さく驚いた声は、女子のものだった。
無視するわけにもいかず立ち止まって振り向くと、義兄の春惟と、どこか見覚えのある女の子が、制服姿のまま兄の部屋の前に立っている。一瞬複雑に視線がからみ合い、三人の表情が失敗した時のように硬直した。
「えっと……おじゃましてます」
気まずそうに頭を下げた彼女は、胸元を飾るリボンの色からして慧斗と同じ学年のようだ。彼女の柔らかそうな長い髪の毛は、柔らかく膨らんだ胸の上でくるりと丸まっていて、それが慧斗の警戒心を掻き立てた。
何も見破られないように、慧斗は軽く会釈する。
「……どうも」
「慧斗、帰ってたんだね。おかえりー」
家族に黙って異性を連れ込んでいた春惟が、屈託なく慧斗に微笑む。慧斗は春惟のこういうところだけは本当に嫌いだった。
「春惟、部活は?」
「えへへ……まぁまぁ……。あれ。びしょ濡れ?」
「さっきの雨」
「雨なんて降ってたっけ?」
雨音に気付かないほど目の前の女子に夢中だったのか――そう考えた自分が嫌で、慧斗はぐっと自分の指を握る。
「シャワー浴びてくる」
「ん。ちょっと彼女、途中まで送ってくるね」
会話はそれだけだった。
動くことが出来ずにいる慧斗を、二人は簡単に追い越して下へ降りていく。すれ違い様、彼女は媚びるように首を傾げ、小声で
「春惟先輩とのこと、まだ誰にも言ってないから、秘密にしてね」
と馴れ馴れしく慧斗に頼んだ。甘い香りに顔を顰める。誰に何を言うと思われているのかわからなかったが、慧斗は深く考えないようにして、無言で頷いた。
二人の後ろ姿を見送り、シャワーを浴びてキッチンへ飲み物を取りに行くと、帰宅した春惟がご機嫌な様子でリビングへ入ってきた。それからすかさず、カウンターキッチン越しに
「俺にもジュース」
と笑顔でねだってくる。慧斗が無言で戸棚からもう一つグラスを取り出すと、春惟はいつもの台詞を口にした。
「女の子連れてきたの、父さんと母さんには内緒にしといてね」
その言い方はさっき同じことを頼んできた女子の声にそっくりで、慧斗はぞっとした。
「……毎回釘刺さなくても、わかってるよ」
慧斗は春惟の視線から逃げるように顔を伏せる。
「ゆいちゃんと慧斗って、同じクラス?」
「ゆいちゃん?」
「さっきの子!」
「ああ……違うよ、顔は見たことあるけど。……今度はあの子と付き合ってんの?」
慧斗の手元が揺れて、紙パックの口から流れるオレンジジュースが2拍リズムを刻んだ。
「うん、いや、まだ友達? かな? 多分。もうさあ〜、ちょーー可愛かったでしょ? 本気で好きなんだよね」
「本気ね……」
グラスを春惟に手渡して、紙パックを冷蔵庫に戻しながら、何度目の「本気」なんだか、と慧斗は小さく溜息を吐く。
「そうそう、今度こそね、超本気」
「あっそ」
「え。それだけー? 応援してくれてもいいのに」
春惟は受け取ったジュースを半分ほど飲み干すと、薄目でわざとらしく慧斗を睨んだ。嫌な事を言われそうな予感がして、慧斗は自分のグラスを口に運ぶ。
「慧斗、髪ちゃんと乾かさないと風邪ひくし、変な癖ついちゃうよ」
「わかってるよ、お前みたいに変な寝癖だらけで学校行く勇気ない」
「ああいうヘアスタイルなの!」
「嘘つけ」
春惟は不満そうに鼻を鳴らした。それから少しトーンを落として、
「慧斗、元気ない?」
と問いかけてくる。慧斗は心を硬く閉ざして、春惟から身を守る準備を整えた。
「何だよ急に」
「さっきから、目ぇ合わせてくれないし、刺々しいし。嫌なことでもあった?」
「……別に……」
本当に「良い家族」で「良い兄」なのだ。いつもこうして、慧斗が弱くなることばかり気付くのだから。慧斗はそれが辛かった。再びグラスを口に運んで軽く睨むと、春惟が「何でも聞くよ」とでも言うように微笑する。
慧斗は間にキッチンカウンターがあることに感謝した。そうでなければ、今頃春惟に抱きつかれていただろう。ことあるごとに抱擁してくるのが、春惟お得意のスキンシップだった。そうやって触られるたび、慧斗は春惟の体温の優しさに怯えるのだ。
「慧斗ー? お兄ちゃんの胸で泣くー? ほらほら、こっちおいでー」
「またそういう……馬鹿言ってんな」
「照れちゃって。添い寝でもしてあげよっか?」
「はあ?」
慧斗は大袈裟に呆れて見せる。昔から、出会った時からずっと、春惟は慧斗のことを気にかけてくる。それが全ての原因な気がしていた。
もしかしたら春惟は、何を伝えても許してくれるかもしれない――。
気の迷いにしては危険すぎることを思って、慧斗は唇を真横に結んだ。そもそも慧斗が春惟に求めているのは許しではなかった。添い寝でもない。
――俺たちには、何も起こらない。
胸の奥で呪いのような言葉を繰り返しながら、慧斗は残りのジュースを一息に体に流し込む。
「あはは、俺じゃ嫌? 慧斗も早く彼女作りなよ。そしたら一緒にデート出来るし」
軽薄さとお節介で包んだ春惟らしい善意の言葉は毒だった。慧斗は甘い液体を飲み込むたび、食道が捩れるような気配を感じて顔を歪める。
「好きな子なんていないよ」
「じゃあ、二年の子、誰か紹介しようか?慧斗しっかりしてるから、年上の方があいそうだし」
「いいから、そういうの。余計なお世話」
「またそういう、冷たい言い方する……」
慧斗は空けたグラスを流しに置いた。上から勢い良く水を流すと、溢れた水流は排水口へ逃げていく。春惟のやるせない溜息は水音で掻き消えて、慧斗の耳には届かなかった。
――どうして好きになってしまったんだろう。
二度と考えないようにしていたことだった。
そんな曖昧な、はっきりした答えのないことを考えはじめたら、永遠に抜け出せなくなってしまう気がする。
怖くなって慧斗は水を止めた。
「髪、乾かしてくる」
「……ん、いってらっしゃい」
春惟は不満そうだ。でも会話はそれで終わりだった。
この気持ちに行く場所なんてない。逃げ場はない――。
そう唱えながらリビングを出る。
行き止まりだらけの家の中で、慧斗は感情を塞き止め続けた。
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