2018年02月09日

第8弾ショートストーリー掲載



発売日変更後、長らくお待ちいただき誠にありがとうございます。

今日はドラマCD本編が始まる前のお話、八雲と江純の出会いを江純視点でお届けします!文化祭で軽音部のステージを終えた江純が、出会い、その心と身体で感じてしまったのは…?


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ウーヴァテューレ
(文:桜しんり)




 文化祭2日目――体育館ステージ横の舞台袖の薄暗い道具置き場は、出演を終えた軽音部のメンバーと、片付けるべき楽器や機材でごった返していた。
 プログラムは休憩時間に入り、緞帳の向こう側からは観客のざわめきが聞こえてくる。
 撤収作業を進める軽音部の横では、ライブの間ひっそりと片端に追いやられていたグランドピアノが、文化祭の実行委員によって慎重に中央に運ばれようとしていた。どうやら、次の出し物で使うらしい。
 今回、軽音部で取りを務めた4人組のバンド「Orsetto.」のボーカルである江純瑞祈は、パフォーマンスの余韻で滲み出る額の汗を拭いつつ、ペットボトルの水に口をつけた。それから、手際よくギターを仕舞う、クラスメートであり、バンドリーダーでもある柿谷省吾の背中に問いかける。

「ね、今日のMC、結構上手くいったよね? 詰まらないでスムーズに話せて、話も脱線しなかったし」
「やー、まあ……うん……でもノリがなー……ロックから突然、丁寧な歌のお兄さんみたいになって、隣で笑い堪えんの大変だったわ。歌上手い分余計目立つってか」
「省吾……? もしかして僕が喋ってる間、時々客席に背中向けてたのって……笑ってたの!?」
「はは、やっぱあれだな、瑞祈は変にキャラ作るより素の方が――ってか、素で喋る以外無理なんだなって今更確信したわ」

 柿谷はおおらかで実直な性質を買われ、夏休み後、部員の満場一致で部長に祭り上げられた男だ。そんな彼から唯一「もうちょっと頑張ろう……」と深刻な表情で要求されていた事に応えられなかった自分が情けなくて、江純は肩を落とす。するとバンド内唯一の1年生、ドラム担当の芦屋佑希がすかさず江純をフォローした。

「でも、僕が新歓ライブで客席から見た時より、ずっと良かったですよ。前の方にいた女の子も笑顔で手ぇ振ってくれてましたし」
「芦屋くん……ありがとう……」
「ばっか、ありゃ失笑してただけだろ」

 ベースを背負いつつ、眼鏡越しに鋭く嫌味を飛ばしたのは、特進科の2年生、寺嶋三樹だ。

「先輩、さすがにそれは言い過ぎですって……」

 背伸びしつつ寺嶋に耳打ちした芦屋の声は、残念ながら江純にも聞こえている。歌うのは楽しいけど、やっぱり向いてないのかな、と江純は長い溜息を吐く。

「省吾、わりーけど先行くわ、テニス部の奴にカレー屋の店番変わってくれって頼まれててさ。お疲れさん」

 言うが早いか、寺嶋はさっさと裏口の階段を降りて行った。「あっ僕も! お腹すいた!」と小柄な芦屋が寺嶋を追いかけて去っていく。子供のような後輩に、柿谷と江純は笑顔を交わした。
 いつの間にか、舞台袖に残っているのは、実行委員数名と柿谷、そして江純だけになっている。俺達も行こうか、と柿谷が江純に目配せした時――実行委員の男女が深刻な様子で囁きあっているのが聞こえてきた。

「先輩こねー。どーすんだよ」
「出演頼んだ時も仕方なく折れてくれた感じだったから……来なかったりして……」
「でも一昨日、ここのピアノの音確認しに来てたよな?」
「そうだけどぉ、気が変わったとか? ピアノも何か、不満そうだったし」
「あー、もう休憩時間終わるぞ。連絡先は?」
「……ごめん、聞いてない……」
「はあ!?」
「だって……雰囲気怖くて。お願いするだけで精一杯だったんだよぉ……!」

 どうやら、次に出演予定の生徒がまだ来ないらしい。
 大丈夫かなと心配になって、次の演目は何だっけと思い出そうとした時、江純の肩に大きな黒い影がぶつかってきた。

「っわ……!」
「どけよ、邪魔」
「す、すみません……っ」

 不遜な低い声だ。よろけた江純の体を、柿谷が咄嗟に抱き留める。江純と同じくらいの身の丈の男は、実行委員の2人に片手を軽く上げて挨拶をすると、ブレザーを脱いで近くの椅子に投げ置いた。ネクタイまで放り投げ、ワイシャツの袖を確認するように軽く触れると、深呼吸をして、じっと睨み続けていた舞台の方へつかつかと歩いて行く。

 え?
 次に出演する人?
 ピアノを弾くの?
 彼が?
 もう舞台に出ちゃうの――?

 準備は必要ないんだろうか。緊張してないんだろうか。
 柿谷も同じことを思ったのだろう、口を開けて舞台上の男を見つめている。江純は何となく彼のブレザーを手に取った。服はきちんと畳みなさい、と躾けられたおかげか、自然と手が伸びてしまうのだ。ハンガーが見当たらないのが悲しかった。
 実行委員の2人は慌てて緞帳を上げ、照明へ指示を飛ばしている。会場からはまばらな拍手と、着席の音が聞こえてきた。何のアナウンスもなく現れた人物に、客席の全員が驚いたに違いない。それでも舞台中央がライトアップされると、会場はしんと静まり返る。
 数秒の沈黙の後、彼は俄に鍵盤の上で指を走らせはじめた。
 彼のブレザーを抱えたまま、ぼんやりと事の成り行きを見守っていた江純は、その瞬間、目覚めたように体を震わせた。

 なにこれ――。
 聞いたことある。
 でも、聞いたことない。

 怖いくらい早すぎる。
 でもミスの予感一つない。
 こんな解釈、許されるんだろうか――。
 江純にとっては、聞き馴染みのある旋律だった。彼の両親はクラシックピアノを好んでいて、家でもよく流れていたからだ。なのに全てが新しく、初めて聞く音のように迫ってくる。

「おー、すごいなー。何かのコンクールで優勝した先輩いるとかって聞いた事あるけど、あの人か」

 柿谷の呟きに相槌を打ちたかったのに、自分の声で彼の音色を掻き消してしまうのが勿体無い。
 この世のものではないような研ぎ澄まされた鋭い優しさが、一瞬ごとに流星のように瞬き、弾けて、消え去っていく。
 江純は彼の背中を、微動だにせず見つめ続けた。大した間も置かず、立て続けに曲が繋がれていく。手にしたブレザーからは、音の繊細さと相反するような、どことなく野性的な香りが漂ってくる。客席の興奮したような拍手で江純が我に返ると、舞台上の彼は椅子を立ち、隙のない所作で一礼しているところだった。
 舞台袖へ戻ってくる時、江純は初めて彼の顔をきちんと見た。
 意志の強そうな太い眉の下に、夜を凝縮したような瞳が、鋭く沈んでいる。顔の造りは無骨な印象で、江純のまとう中性的な雰囲気とは対極だ。音からとめどなく溢れ出ていた情感が嘘のように無愛想で――不満足そうな表情だった。
 椅子の上のネクタイを手にした彼は、訝しそうに周囲を見渡す。睨みつけられてやっと、江純は彼のブレザーを抱きしめている事に気付いた。

「すみません、畳まなきゃと――」

 思って、と言った声は掠れている。彼は不機嫌そうに眉根を寄せた。

「余計なお世話」

 ブレザーを奪い取って、何の未練も見せずその場を離れようとした彼の背中に、江純は思わず声をかけていた。

「あ、あのっ」

 無視して立ち去られてしまうかと思いきや、彼は振り返り、獲物でも品定めするように江純を睨んだ。

「あんだよ」

 食べられる部分が少なそうで、仕留める価値もないと判断されたのかもしれない。威嚇というよりは急かすような、苛ついた声だ。
 けれど江純は動じなかった。何故なら彼のピアノから、そんな険しさは一切感じなかったのだ。

「あ……あの……すごい……、大好きです……!」
「……は?」

 強い余韻と興奮で、江純は選ぶ言葉を間違えた。後ろから、柿谷の笑いを堪えるような呻き声が聞こえて、江純の顔が熱を帯びる。
 今の感動をありのまま伝えたいと思うのに、気持ちが上滑りして、言葉が出てこない。彼に見られている、と思うと体がぐんと熱くなってくる。

「あ……や……えと……ピアノ……まだ鳥肌立ってて……」
「……そりゃどーも」

 困惑した様子で相槌を打つと、彼はあっけなく去っていった。

 あ、名前を聞いてない――。

 追いかけたいのに、嘘みたいに足が震えて叶わない。仕方なく柿谷からパンフレットを借り、イベントプログラムのページを開く。
 軽音部員の名前の下に、今聞いたばかりの曲のタイトルと、彼の名前が並んでいた。

 ・ブラームス 2つのラプソディ 
 ・ショパン バラード第1番
  ピアノ:八雲 譲(特進科3年C組)

 八雲譲――。
 八雲先輩。

 江純は吐息で、魔法のように唱える。
 彼の不機嫌そうな表情を、黒い瞳を、服に染み込んだ匂いを、体にぶつかられた時の衝撃を思い出すと、何故か胸がずきずきと痛みを訴えて、頭の中がぐらぐらして、口の中が乾燥して息苦しい。
 歌って汗をかいたままだし、風邪でも引いてしまったのだろうかと江純は眉間に皺を寄せる。

「瑞祈ー?」

 柿谷が江純の肩を抱き寄せるようにプログラムを覗き込んできた。誰に対しても家族的で、それでいて押し付けがましくない友人の態度は、江純をいつも安心させてくれる。でも今の動揺には、全く効果がなかった。

「どした? そんな気になんの? 俺もつい最後まで聴き入っちゃったけど」
「……うん……」
「お前作詞で悩んでたし、ちょっとピアノ教わってみれば? 今は作曲、俺と寺嶋でやってるけど、瑞祈も出来れば幅が広がるし――」

 思考が鈍麻していて、言葉を理解するのが億劫だ。いけないと思いつつ生返事を続けていると、少しずつ、柿谷の声が遠退いていく。残っているのは、彼の音の余韻だけだった。


 *   *   *   *   *



 文化祭の後――どこから仕入れてきた情報なのか、柿谷から「あの先輩、放課後音楽室で練習しているらしいよ」と教えてもらった江純は、はじめこそ躊躇したものの、次第に暇さえあれば八雲の元へ押しかけるようになっていた。
 後ろ姿しか見えなかったステージでは分からなかった事だが、演奏中の彼の表情は、穏やかに、苦悩するように、奪うように、慈しむように――そして時に微笑を浮かべて、まるで恋人と愛し合っているかのように豊かに変化する。
 その官能的な表情と、愛撫のような指の動きに魅入っていると、江純の体はいつからか、嫌な具合に震えるようになっていた。それだけでも恐怖だったのに、音楽室に通い始めて間もなく、江純は何のビジョンもない、彼の演奏に包まれるような感覚だけで夢精していた。泣くほど取り乱して、それ以来眠るのが恐ろしくて、昼と夜の区別が曖昧になっている。
 どうして突然こんなおかしな事になってしまったのか、江純は自分が全く分からない。

 もっと聞きたい。知りたい。また会いたい。
 魔法みたいな指先に触れてみたい――触れて、欲しい。
 きっとこれは執着という名前の最悪な病気だ。
 あの日、寺嶋や芦屋と一緒にカレーを食べに行けばよかったのに。
 僕だって思い切り歌って、お腹が空いてたのに。
 どうして立ち去らず、彼のブレザーを手に取ってしまったんだろう。
 そんなことしなければ、こんなに汚くて、わけのわからない事は知らずに済んだのに――。

 冬休み間近のある日、江純はとうとう彼への執着に押し潰されそうになって、辿り着いた音楽室のドアの横に座り込み、膝を抱えて俯いた。
 扉の向こうの彼を思い浮かべながら、初めて彼に会った時に伝えた言葉を――その後も何度も伝えた言葉を、歌う時のような気持ちで口ずさむ。                                                                                         

「好き――大好き――」

 黒鍵と白鍵のモノクロの海を、軽やかにはじく指先を思い出す。
 その時の彼の、まるで欲情しているみたいな恍惚とした表情を。
 旋律と一体化して、揺れる体を。

「っ……」

 皮膚の内側を這いずるようなおぞましい熱を、息を止めて抑え込む。
 連絡先も知らなくて、何の約束もなくて、ピアノが好きだと告げるたび嫌悪の眼差しを向けられて、その突き放すような態度は日に日に冷たさを増していて、江純がここに来なければ全て終わりで、つまり2人は何度言葉を交しても赤の他人のままだ。
 いつも「これが最後だ」と思って音楽室のドアを開けるのに、彼のピアノを聞くと、どうしてもさよならを言えなくなってしまう。

 でも今日は、今日こそは――。

 冬の冷気が染み渡り、体が震え始めた時、不意に隣のドアが開いて、江純は顔を上げた。

「あ……八雲先輩!」

 嘘のようにいつも通りの声で、江純は一瞬、誰が喋ったのかわからなかった。「素で喋る以外無理なんだな」と評してくれた友人を裏切ってしまった気がして怖くなる。

「江純……お前何でそんなとこ座り込んで」

 立ち上がり、いつも通り微笑んで話しかけると、彼の表情もいつも通り、江純を遠ざけるような不機嫌なものに切り替わった。

 大丈夫――。
 結末は分かってるから。
 ありのままの気持ちと、今までのお礼と、さよならの挨拶を伝えるだけだから。
 他にこの病気を治す方法はないから。
 そうすれば元通り、ぐっすり眠れる筈だから――。

 言うべき言葉を探して息を吸う。
 この先少しでも気を抜いたら、夢で彼の音を汚した事を悟られてしまう気がして、江純は壊れた体にぎゅっと力を込めた。


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posted by GINGER BERRY at 18:00| 第8弾不釣り合いな恋の解釈